*琉綺
 ユフィの性格が性格なので、アステリア王城に流れる空気は非常に穏やかである。
 穏やかというと少々語弊があるかも知れない。どちらかといえば、ノリがいい。
 センティレイドのそれとは違った意味で、仲がいい。というより、身分の差を感じにくい。それもこれもユフィの性格が性格であるが故だ。
 ノリがよくて仲がよくて、それでも緊急時は対応が早いし漏洩が心配な情報は大切に扱うし、諜報員も兵士もメイドも有能な人材ばかりが揃っているのはユフィが一番よくわかっているし、感謝もしている。ただ、ノリがよくて仲がよいので、日常茶飯事なことは報告があがってこない。
 ユフィが一度「友人だ」と紹介した人は顔パスで、そんな人物が来訪しても、もてなしはすれどユフィに報告がこないことがあるのだ。
 もちろん、約束しているならユフィもそれを忘れることはないし、突然の訪問でもユフィはどこかと尋ねられたら当然ユフィに連絡がくる。アステリア王城が勝手知ったる他人の家よろしく、くつろげる空間であるのは嬉しいことだし、セレナとかティアスとかに用があるならユフィに挨拶がなくても構わない。たとえばお菓子をねだりにくるマコちゃんとか。
 構わない。構わないし余程のことがない限り、不便は感じないのだが……、たまに、ごくたまに、神出鬼没に出現されると、驚くではないか。
 そんなことをつらつらと考えながら、ユフィは我が物顔でソファを占拠している、外見が無駄に派手な男を見下ろしていた。
「やぁ王様!お邪魔してるよ!」
「……鳥……。いつからいるんだお前」
 爽やかに片手を挙げつつ卓上のクッキーを口に放り込む、アホウ……否、極楽鳥に、ユフィは眉を寄せた。
「いつから?アステリアに来たのは1時間と40分前。ティアスと父親大嫌い同盟の集会をして、『父親ってウザいよな!』ってのを再確認したあと、セレナートさんにクッキーが焼けたよと呼ばれて35分前にこの部屋に」
「……わかったもういい」
 そんなことだろうとは思っていた。ティアスに用があったのだから、ユフィに連絡もないわけだ。
 ちなみに、ユフィも小腹がすいて政務を中断してきたところである。お茶菓子はいつものように、愛妻の作る絶品スイーツ。本日はクッキーらしい。
「ちなみに、ティアスはセレナートさんと一緒に焼き上がったクッキーを取りに行ってるよ」
 加えられた一言にそうかと答えて、ユフィは鳥の向かいに座った。クッキーに手を伸ばし一口囓りながら、そういえば、と思いつく。
「……よくついていかなかったな?」
 ティアスとセレナと“家族ごっこ”をするのを最近の楽しみにしている鳥のことだから、クッキーの運搬など喜び勇んでついていくものだと思った。
 すると予想外なことに、鳥のチェシャ猫を彷彿とさせる笑みが、ほんの少しだけ―――崩れた。
「……母親とのみつどきは、邪魔しちゃいけないよ」
 単語の使用法についてはこの際目を瞑り、何故そんな表情をするのか気になって、すぐにこの男の家族構成を思い出して、納得した。
「……お前も結構常識人だな」
「そうだよ俺は常識人だよ。さらに頭がいいんだよ。口論になったら王様を言い負かす自信だってあるよやってみる?」
「いやいい、ラインで負け慣れてる」
 あぁそうじゃあ今度はライン様言い負かしてみようかな、とふざけたことを口走る鳥に、少々この二人の論争というものを傍観してみたくなった。
 クッキーを噛み砕いて、飲み込むまでの沈黙。
 ねぇ王様、とおしゃべりなインコかと思う程話題の尽きない鳥がさえずって、けれどその声に含まれていた固さに驚いたユフィは、偽物のオッドアイを正面から受け止めた。
 気に障る笑みを浮かべていない極楽鳥。
「父親ってどんな気分?息子ってどんな感じ?」
 珍しいものを見たなぁと感動する2秒、その台詞を噛み砕いて飲み込む3秒、真剣に答えを探す4秒、そして10秒目に、ユフィは苦笑した。
「どんなって言われてもなぁ。まぁ人それぞれだと思うが……、俺は、家族が何より大切だし、命を賭けても守ろうと思う。父親として」
「……うわぁ、それ言ってて恥ずかしくないの?」
 容赦ない一言に、けれどユフィは後悔を感じなかった。
「それに、家族のくくりは何も血縁関係だけじゃない。たとえばラインだって、俺にとっては息子のようなものだし、……あぁそうだ」
 そこでユフィはひとつ思いついて、けれどわざと意地悪く笑って見せた。
「俺がお前の父親代わりになってやろうか?」
 鳥の動きが、止まった。
 みるみるうちに、その表情が歪んでいく。
「……はぁ……?頭大丈夫?俺も一応21だからね?父親とか……」
 そこで鳥は大袈裟すぎる程大袈裟に溜息をついて、立ち上がった。
「帰る」
「……セレナがクッキー持ってくるんじゃないのか?」
「いいよもう今日は十分堪能させていただきました。王様ってたまに本気で馬鹿だよね」
「褒め言葉か?」
「馬鹿にしてるんだよ!」
 捨て台詞のように言い置いて、鳥は乱暴に扉を閉めていった。
 ふ、と思わず笑みがこぼれて、ユフィはクッキーをつまむ。
「……年齢どうこうじゃなく、存在の代わりはできるんと思うけどな」
 ―――もうお前は俺にとって、放ってはおけない存在になってるんだから。
 ノックの音がして、入ってきたのはセレナとティアス……ではなかった。
「ユッフィ、あっそびーにきったぜ!」
「あぁくーさん、サチコも」
 異世界の友人が、こうも重なった時間に訪ねてくるのも珍しい。とりあえず座れよと勧めると、サチコが廊下を顎で示した。
「今ひよっことすれ違ったぜぇ」
「あぁ、今までここにいたんだ」
「ひよっこのあんな顔見たことねぇが、なんかあったのかぁ?」
 サチコの台詞に、ユフィは思わず噴き出してしまった。
 状況が呑めない狂とサチコが、顔を見合わせる。
「……くーさん。息子の気持ちってわかんないものだな?」
「あぁ?いきなりどうした」
「なんでもない」



*碧砂
悠久にも似た時間の流れる国、アステリア。
幾つもの時と空間を越え、【語部】と呼ばれる一族の男と
この遥けき異地へ降立ったのは、ほんの数刻前。
もとい、あの奇抜な色をしたひよっこの言葉を借りるならば――
1時間と24分前、と言ったところか。
それから見知らぬ城内を、この男……狂の案内を受けつつ盤桓すること暫し。
「――ってぇことでサチコ、ここの説明は粗方終了だぜ。」
後で分からない事でもあれば城主に直接聞いてみると良いさ。
そう付け足しながら数歩手前を歩いていた狂が振り返る。
眉間に軽く寄せられた皺、相反して浮かべられた柔らかな笑み。
眉間の皺は別の顔で見慣れているが、こんな風に笑う事も出来るとは…
頂点を過ぎた午後の日差しと相俟って、その眩しさに思わず目を細める。
その様子を見て、狂は「くっ」と喉を鳴らし一層笑みを深めた。
「なんだサチコ、もう疲れちまったのかい?」
「……いや、」
向けられた視線に、人知れず罪悪感にも似た居心地の悪さを感じ――
「…色の多さに目が痛くなっただけだ、気にすんな。」
遠く仰いだ空は、何処までも澄み渡り。
空がこんなにも青いものだとは、今まで想像だにしなかった。


「馬鹿にしてるんだよ!」
聞き慣れた、しかし普段と違い少々荒げられた声が廊下に響く。
遅れて粗雑に閉められたドアの音、こちらに眼もくれず走り去る人影。
その後姿を眺めつつ、夜店のカラーヒヨコが脳裏を過ぎったのは気の所為として。
飄々とし、嘲りの薄笑いを浮かべた平生の彼とは違うその姿に軽く興味を覚え
長い廊下の端を曲がるその時まで、延々と左の眼で追い続け。
――と、その行為を中断させるノック音。一拍の後に開かれる扉。
「ユッフィ、あっそびーにきったぜ!」
呆れる程に朗々とした声、それと共に入室する狂。
「あぁくーさん、」
気心の知れた来客を前に、この城の主は紅茶色の髪を揺らし応える。
その顔には狂と似た穏やかな笑みが浮かび――
「サチコも。 とりあえず座れよ。」
その笑みは知り合って間もないオレに対しても分け隔てなく注がれ。
……まるで太陽だな。見慣れぬ日差しに耐えかね、オレは思わず日陰を探す。
「今、ひよっことすれ違ったぜぇ」
口を衝いて出たのは先刻のカラーヒ…ひよっこの事だった。
あぁ、と一拍。
そして彼はソファに背を預けながら続ける。
「今までここにいたんだ」
「ひよっこのあんな顔見たことねぇが、何かあったのか?」
我ながら他人に感興を覚えている自身に嘲弄の気持ちが生まれ――
しかしそれを表出させるよりも先に…眼前の城主が勢い良く噴き出した。
訳が分からず隣にいた狂に視線を向けると、同じく彼もこちらを見つめ返していた。
「……くーさん。息子の気持ちってわかんないものだな?」
笑いを堪え、搾り出す様に喋る。
そのあまりに唐突な言葉に対し、狂は率直に返答を一つ。
「あぁ?いきなりどうした」
「なんでもない」
自己完結してしまっている彼の前に、どんな問も最早意味を成さない。
相変わらず苦笑を浮かべている彼に対し、オレも、言葉を一つぽつり。
「…いよいよ気でも違ったか、可哀相なユ……ミッフィー」
「おま、そこは言い換える所じゃないだろ!!」
普段通りの彼の声が、この広い部屋に満ち。


クッキーを供にこれから繰り広げられるであろう談笑を辞退し、
引き続き城内を散策――もとい、一人徘徊する事にした。
もとより今日は食事許可が下りていない。
餌を前に御預けを喰らう事も、あの輪の中でじっとしている事も
今のオレでは耐えられそうにない。 何故だかそんな気がした。
そんな事を考えながら角を曲がると、左目に一組の親子が映り込んだ。
抱えている籠からは先刻と同じ甘い匂いが漏れており
清潔な布が掛けられ窺う事は出来ないが、恐らく焼き菓子が入っているのだろう。
と、いう事は彼らが……ユフィが命を賭してでも守ると言っていた
愛すべき妻と息子、セレナート妃とティアス殿下なのだろう。
楽しげに語らい歩く彼らと、不意に視線が交わる。
一拍の、間。
春の日差しを思わせる微笑みと、一抹の警戒心を滲ませる夕日の双眸。
――なるほど、家族揃って良く似ている。
「あら、今日は貴方もいらしてたのね。」
初めまして、と笑みを深めるセレナート。
ここは西洋式の挨拶をすべきかどうかと暫し悩んだが、
少し低い位置からの視線が気にかかり…右手を差し出す事にした。
「ユフィアシード陛下から噂は予々…お邪魔させて貰っている。」
「ふふ、そう形式ばらなくても良いのよ。 ここでは皆そうしているわ。」
そうか、と華奢な細腕と握手を交わし、続いてティアスにも右手を差し出す。
まだ少し小さなその手からは、幾つもの肉刺の感触が伝わって来る。
この年で熱心に剣術の稽古でもしているのだろうかと、つい関心してしまう。
「なんだ、親父と一緒じゃなかったのかよ。」
あからさまに嫌そうな顔で「親父」と述べる彼に微笑ましさを覚えつつ
「あぁ、色々と、あってなぁ――ひよっこを、探してる。」
詰まり詰まり、そう返す。
「ひよっこ?」
「やけに鮮やかな、でっかい甘党のひよっこの事だ。」
あぁ、と納得のティアス。こんな変な説明がまかり通るのも些かどうかとは思う。
「鳥さんなら2階のテラスにいたぜ。
 でも残念だな、折角クッキーを持って行こうと思ったのにさ!」
まるで人生の半分を損しているとでも言わんばかりの表情を浮かべるティアスを
慈愛に満ちた瞳で見つめ、セレナートがやんわりと口を開く。
「ふふ…ティアス、こうすればサチコさんにも分けてあげられるわ」
手拭用のナプキンを使い器用にクッキーを小分けにするセレナート。
その手馴れた様子に見惚れていると、断る間もなく手中に預けられてしまった。
しまった……仕方がないのでひよっこへの手土産とする。
会話も終わり「それでは…」と立ち去る二つの背中を見送り――
残されたのは、手のぬくもりにも似た焼き菓子の熱と、鼻孔をくすぐる甘い香り。


ティアスに教えられた通り、色鮮やかな目的物は2階のテラスにて発見された。
手摺に腰掛け、好物の飴玉の入った缶を揺らし小気味良い音を立てている。
音の具合から察するに――結構な量が既に消費されているらしい。
…虫の居所が悪い事は百も承知、わざとらしく足音を立てて歩み寄り一言。
「あんま甘いもんばっか喰ってると太るぞ、ひよっこ」
その刹那、口内にあったであろう大きな糖質の塊が砕ける音が一つ。
そしてこちらを振り返る事もなく背を向けた男は言葉を紡ぐ。
「何だよさっさん、俺に何か用?」
カラコロと音を立てて取り出したのは橙色のドロップ。
それを深まる青に高々と投げ――
「悪いけど気分が優れないんだ。独りにしてくれないかな?」
更に紡ぎ、器用にも口に含む。
不貞腐れた幼子の様な、その言動が酷く可笑しくて、思わず口角が、月を描く。
「なぁに、21にもなって鶏冠に来た勢いで部屋を飛び出して行ったオマエに
 多少なりとも興味が湧いてなぁ。 探して来てみりゃこの様だ。」
盛大に響く破砕音、動きを止める色彩豊かなドロップの缶。
酷くゆるりとした速度で振り返り、その顔にはいつものあの笑みが湛えられ。
しかし爛々とした瞳に宿るは侮蔑ではなく――
「…人の感情逆撫でして反応を見るのは面白いけど、いざ自分がされるとなると
 良い気はしないもんだね。むしろ不快でしかない、殺意すら覚えるよ」
弧を描くように歪められた口からは嬉々とした声で物騒な言葉すら覗かれ。
あぁそうだ、と手摺から降立った彼は目を細め更に嗤う。
「そういえばさっさんには挨拶がまだ済んでなかったね
 …俺の国では初対面の相手に対してこうするのさ!」

初めまして――さようなら!

床を蹴り、跳躍によって一気に狭められた二人の間合い。
視界に広がるは鮮やかな髪色と、二つの月。
別れを告げた口元と、たがう事無く首元を狙う隠しナイフが描く軌跡。
それを少しの動作で――致命傷を避けるようにして、まともに、受ける。
「――ははっ。さっさん、アンタだったら完全に避けれただろ?
 頭大丈夫?流石の俺でもこう言いたくなるよ。『狂ってるんじゃないか』ってね」
幾分落ち着きを取り戻した彼が、相も変わらず笑みを湛えて言葉を発す。
急所は逸らしたとはいえ、太い血管の通る首を傷つけたその刃と手は
この髪色に似た緋色でベットリと汚されていた。
「生憎オレは大人でね、丁重に挨拶してくるのを遮る様な無粋な真似はしねぇんだ。
 ……それはそうと、オマエの血も存外温かいもんだなぁ、ひよっこ」
言葉の意味を解せず怪訝そうに眉を寄せる眼前の男。
その頬に走るは、朱の一線。
「武器で力を補おうってんなら、もっと強度のあるヤツを使った方が良いぜぇ?」
折った隠しナイフの切っ先を引き寄せ、指先を染める赤を舐め取る。
「…アンタも、あの王様とはベクトルの違った馬鹿だろ。そうだ、そうに違いない。
 ……気が変わった、用件は何?聞くから済んだら帰ってマジで」
まくし立てる様に、苛立つ様に。刃先を失った得物を収めながらひよっこが嘆息する。
つられてオレも一拍。
【用件】を探して、更に、一拍。
――ふと、右手にある温かさを思い出し視線を落とす。
「……血の絆ってのは、勿論 強い繋がりを持つもんだが――
 偶然が引き寄せた邂逅が 新たな繋がりを、かけがえの無い絆を生む事も ある」
過去に自分がそうであったように――そう考え、右目が酷く疼き、止めた。
落とした視線を戻す。そこには神妙な面持ちでこちらを眺める双眸が一対。
「…………いや、想像以上に意味不だわ、さっさん。
 そして意味不明な上に鳥肌立つ様な臭さもあるって何なのマジで、ねぇ。」
「安心しろ、言ってる本人でも結構アレだぜぇ?
 …まぁ、なんだ、袖触れ合うも多少の縁と言うだろが。
 こうして皆出会っちまったんだし、今後ともまぁ宜しくってヤツだ」
空いた左手を敢えて差し出す。それを見てひよっこが笑う。
嘲笑、そして差し出し返される左手。
「…あぁそうだ、オレの国には『倍返し』という言葉があってだなぁ――!!」
素早くその手を、もとい腕を掴み……
オレはテラスの外めがけ目一杯ひよっこを投げ捨ててみた。
「安心しろ、加減さえ間違っていなければ庭の噴水に着地出来るはずだからよ。」
声が届いたかどうかは不明だが、数秒の後に届いた派手な着水音に満足したオレは
残りの2人の待つ部屋へと向かうべく、踵を返し歩を進めるのだった。   END



*狂護
「……くーさん。息子の気持ちってわかんないものだな?」
穏やかな日の照る昼下がり。
城を訪ねた二人の客人に、橙色の王は、笑みを浮かべてそう言った。


「あぁ? いきなりどうした」
狂(クルイ)は、王の唐突な言葉に、眉間のしわを若干だけ深くして聞き返す。
「なんでもない」
相も変わらず笑みを浮かべて言う王に、狂とサチコは思わず顔を見合わせる。
一瞬の間をおき、サチコが灼熱の髪を揺らして呆れの色を形作った。

「……いよいよ気でも違ったか、可哀相なユ……ミッフィー」
「おま、そこは言い換える所じゃないだろ!!」

「お約束すぎてむしろ笑えるってぇの。漫才かい」
自分で勝手に用意し淹れたお茶を飲みながら、狂が至極のんびりとツッコミをいれた。
器具と茶葉は、給仕係が支度してくれた配膳のワゴンから拝借している。
彼らが来た際には、給仕の係はワゴンだけを置いて退室するのが定石になっていた。

あくまでのんびりと、淹れた茶を一杯飲み干した所で、目の前にいる友人二人のためのカップを取り出す。
勿論紅茶を、彼の一度使ったカップと、友人たちの今だ使用されていないカップに注ぐためだ。
しかし、その作業は灼熱の髪を持つ友人の声でとめられる。
「ああ、俺はいらねぇぜえ?」

用意をしていた狂も、書類を纏めていた王も、しかしサチコの言葉に驚く様子はない。
「ああ……そうかい。気をつけて行ってくるんだぜ?」
「あれのことに関しては……お前の方が分かってそうだしな」

淹れた紅茶を王に手渡しながら、そして王はそれを受け取りながら、のんびりと答える。

「ああ、じゃあな。また今度、といっておくぜえ」
目は合わせない。お互いに振り向くこともない。
縁があったらまた出会うだろう。そしてそれは、きっと遠い先のことではない。

灼熱色の異邦人は、扉の音を最後に視界から消えた。

二人きりでいるにはあまりに広い部屋に、一瞬の沈黙が戻ってくる。

「で、あんたはどうしたんだい?」
ティーカップを手にしたまま、狂は王の正面の椅子に、至極ゆっくりと腰かけた。



*琉綺
 灼熱の髪色を視界から消したドアの音が、妙に響いた沈黙。
 唯一残った狂はカップを手にしたまま、何故か一度悠然と立ち上がり、わざわざユフィの目の前に座りなおした。
「で、あんたはどうしたんだい?」

「……、何が?」
 訳がわからなくてユフィが首を傾げれば、狂の眉間に寄ったしわが深くなった。
「何が、じゃねぇってぇの。さっき笑ってた理由は何かと聞いてんのさ」
 ようやく思い至って、あぁ、とユフィは軽く笑う。
「子持ちなの俺とくーさんだけだろ。だから振ってみた」
「振ってみたってぇな……」
 狂が反応に困るのも理解できるので、ユフィは悪かったよと苦笑した。
「鳥にさ、俺がお前の父親代わりになってやろうか、って言ったんだ」
 ネタばらしをした途端に、狂の顔に渋さが広がった。
「……なんでそうなった……?」
「いやまぁ流れなんだけれども。」
「……オレはたまに……アンタは馬鹿なんじゃないかと錯覚するぜ」
 あ、やっぱり馬鹿なこと言ってるように聞こえるのか。
 途中経過を説明したらまた反応も違うのかもしれないが、面倒になったのでやめた。
 だから違う問いをぶつける。
「くーさんにとって、息子とは何だ?」
 その問答の発端のような口調が誰かに似ていると感じて、すぐに晴れ空より澄んだ青を思い出した。ユフィには到底及べない思考能力から生み出される考察を、時折こうやってふっかけてきた男。
 狂が黙っているので、更に追加する。
「家族とは、何だ?」
 蒼紅の双眸に宿る色が変わった。けれど彼は押し黙ったままだ。
 この男にとって「家族」という単語が、一言では語れない意味を持つことを、ユフィはなんとなく理解していた。我ながら意地悪な問いだったかと内心苦笑するが、反省はしない。
「じゃあ俺の独り言聞いてくれよ」
「……なんだユッフィ、今日はいつになく饒舌だな」
 本当にどうしたんだろうなぁ、と相槌を打って、ユフィは狂が淹れてくれた紅茶を一口啜った。美味である。
「俺はこう見えて人見知りでさ、だから」
「ちょっと待て。誰が人見知りだってぇ?」
「いやだから俺が。」
「寝ぼけてんのかい?」
「残念ながらまったく」
 ツッコミはいいからとりあえず聞けよ、とユフィは続ける。
「俺は人が信用できなくてさ」
「―――オレだの鳥サンだのサチコだのと付き合ってる口が、よくそんなこと言えるなぁ」
 その一言はユフィにとって至上の評価で、だからにこりと笑って見せた。
「はは、騙されたなくーさん。俺の道化もなかなかのものだろ?」
 狂の表情が凍りついた。
 いつもこの男の飄々とした態度には頭を抱えているのだ、たまには言い負かしてみるのも悪くはない。
 あぁでも、とユフィはそこで語弊に気づいて訂正を加えることにした。
「だからさ……なんていうかなぁ。たとえば他国に使者を出すとしても『俺の言葉が本当にそのまま伝わるか』『向こうの返事は本当にこれなのか』と心配になるんだ、俺は。『こいつはアステリアのことを至上と考えて動ける人間か?』ともね。うちの使者が信じられないんだ、疑心暗鬼にも程があるだろ?」
 アンタは、と狂が口を挟む。
「……アンタは、社交的で誰にでも分け隔てなく接していて……なんでも受け止める懐の広さをもっているヤツだと」
「思ってた? なら作戦成功だ」
「じゃあアンタは誰も信用してねぇってのかい、フィ。あの白銀の王も?」
 狂の声に滲む真摯さが、まるでいつもとは逆転した立場を思わせて可笑しくなった。
 だからユフィはあえて、からからと笑って見せる。
「そこで自分を挙げないのがなんともくーさんらしいな」
「ユフィアシード、真面目に答えろ」
 狂の勢いにさすがに気圧されて―――ユフィは笑みを消した。
「信用してるよ」
 蒼紅のオッドアイを、まっすぐに見つめる。
「ついでに言えば、くーさんもサチコも鳥も、信用してる」
 狂の双眸に宿る力が、緩まない。こんな話するんじゃなかったかな、と一瞬だけ後悔した。
「最初はもちろん信用してなかったさ。そこでようやく大回りした話が戻るわけだが、俺にとって信用に値する人間は、“家族”でくくるんだ」
「……、あぁ?」
「セレナとティアスは無論だけど、ラインと……マコちゃんのこともくーさん知ってるよな。あともう何人かと、鳥とサチコとお前だよ。どうだ狭いだろう」
 狂の表情が複雑なものになる。
「で、我ながら厄介だと思うところがここからで、俺は“家族”が救えるなら手段を選ばない人間だってこと」
 たとえば百人の民を犠牲にすれば、あるいは自分の命を差し出せば、“家族”が救えるというのなら。俺は犠牲を躊躇せずに“家族”を救う。
 そこでユフィは、自分の中の違和感に気づいた。
「……うん? 違うな……信用に足るから“家族”なんじゃない。……放っておけないから、俺の力で幸せにしてやりたいから、“家族”なんだ」
 そこで己の中で積み上げていた理論が破綻した気がした。
 わけわかんなくなってきたなぁ、とユフィは思考を言葉に変換していく作業を放棄する。
「悪いくーさん、偉そうなこと言って俺の中でもまとまってなかった。やっぱり考えるのは苦手だ。今の忘れてくれ」
 両手を挙げてソファに体重を預ける。
 だいぶ歪んだ考え方であることは自分でも気づいている。だから先程は思わず―――笑ってしまったのだ。
 ユフィがゆっくり紅茶を飲み干すだけの時間、狂はずっとユフィを見ていた。
 そしてぽつりと一言。
「―――フィ。アンタやっぱり、俺と似てるぜ」
「そりゃ光栄だ」
「だから『鳥よ息子になれ』発言になるわけかい。なるほど」
「主旨は合ってるがその言い方なんか嫌だな」
「そんなユッフィがどうして民が死んだくらいであんなにへこんでたんだい?」
 痛いところをつかれた。いつぞやの失態を思い出して、ユフィは思わず苦笑を浮かべる。
「あれは忘れてほしいんだが……まぁ、国王であるってことの強迫観念かな。俺はくーさんが思ってるほど強い人間じゃないし、なんだかんだ言ってるが、俺の両肩には数えきれないほどの人間の命がのってるんだ」
「なんでオレに話した?」
 まっすぐに向けられた蒼と紅。まっすぐに見返して、ユフィは微笑む。

「―――“家族”だからだよ」